1.はじめに
1704年から1717年にかけてアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland:1646〜1715)によって『千一夜物語』(Les Mille et une Nuits)が出版され、この東洋の物語が初めてヨーロッパに紹介され,好評を博した。ほぼ同時期の1710年から1712年にかけて、ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix:1653〜1713)による『千一日物語』(Les Mille et un Jours)も出版された。18世紀初頭のフランスでの東洋の説話への人気の高さがうかがえるが,今日では,有名な『千一夜物語』に比べると,『千一日物語』の方は,ほとんど知られていない。そこでこの研究ノートでは,『千一日物語』の概要について,『千一夜物語』との比較を通し,特にそれぞれの枠物語の内容を中心に考察したいと思う。
2.『千一日物語』について
『千一日物語』の作者のペティについても、日本ではまったくといっていいほど知られていないが、ルイ14世(在位:1643〜1715)の時代に活躍した優れた東洋学者で、歴史家や外交官の仕事もこなしていた人だという。1653年にパリで生まれ、父のフランソワ・ペティ(1622〜1695)がルイ14世の通訳秘書をも務める東洋学者だったこともあり、東洋の言語には早くから精通し、1670年,16歳の時にはコルベールにより中東の使節として派遣され、エジプト、パレスチナ、ペルシア、アルメニアなどを訪れた。また小アジアを経由してコンスタンティノープルにも赴いた。旅行中は、言語、文学、風俗、習慣、美術なども研究し、ありとあらゆる珍しいものを集め、また多数の写本を王立図書館へ持ち帰ったりもした。 ルイ14世も彼に会って話をしたがったという。 ペティは近東諸国の言語を担当する海軍省の通訳秘書になり、トルコやモロッコへ学術調査や政治使節としても赴いた。1692年にコレージュ・ロワイヤルのアラビア語の教授に就任し、その数年後、父が亡くなったあと、父の務めていた国王の通訳秘書の職も引き継いだ。 1710年から1712年にかけて『千一日物語』を出版したが、その後、1713年に亡くなっている。(1)
『千一日物語』はブルゴーニュ公妃(1685〜1712:ルイ15世の母)を楽しませるために出版されと言われている。1697年,ルイ14世の息子(王太子)の長子ブルゴーニュ公(1682〜1712)とサヴァワ公女マリ・アデライドが結婚し,宮廷は一気に活気づいた(2)。ブルゴーニュ公が15歳,公妃が12歳のときだった。ルイ14世も「サヴォワの薔薇」と呼ばれた(3)マリ・アデライドを大層かわいがり,宮廷生活も和んだであろうことは,容易に想像できる。 しかし,そうしたルイ14世の晩年の宮廷での憩いある生活も長くは続かず,1711年に王太子が死去し,翌1712年には,ブルゴーニュ公妃が宮廷で流行した麻疹によって26歳の若さで急逝した。 その1週間後にはブルゴーニュ公も死去し,宮廷の空気は一挙に暗いものとなる。彼女のために書いていたとされるペティの物語集の執筆も,中断を余儀なくされたであろう。
この物語集,実は『千一日物語』とはいっても,191日から959日までの話が存在しない。190日目の話が終わると,その次の話は960日目の話となっているのである。最近の研究では,こうなった最大の理由が,このマリ・アデライドの死の影響であると言われている (4)。彼女の死により,宮廷も暗い雰囲気に包まれたわけだが,ペティもこうした宮廷の空気は敏感に察したのであろう。ペティは『千一日物語』の出版を中断するのではなく,ブルゴーニュ公妃への追憶のためにも,この物語集をとにかく後世に残そうと,1001日目の枠物語の結末まで一気に書き上げ,公妃の亡くなった1712年のうちに何とか完結させ出版したようである。 ペティ自身も,翌1713年には死去してしまうので,途中の日数が770日近くも抜けているとはいえ,枠物語としての形の上では完結したスタイルで残されたのは, 作者にとっても,この物語集にとってもよかったのではないかと思う。
『千一日物語』は、前書きによれば,イスファハンの聖職者であったモクレ(Moclèt)が、インドの原作をもとに構想したもので、その手稿を、1675年にフランス人の友人だったペティに遺贈したという(5)。 ただし、この物語集は,フランス語に翻訳される前の段階の原テキストが失われていることもあり,このモクレという人物が実在の人物であったかどうかについて、疑っている研究者もいる(6)。 膨大なペティの手紙のどこにも、モクレという名前が見当たらないからだという。 この物語集に権威を与えるために、このモクレなる人物をペティが考案して利用したと考えられなくもないが,物語の内容がまったく彼の創作というはずもなく、現地で収集した資料をもとに,当時の時流にのってまとめ上げた作品なのであろう。
『千一日物語』は原典が残っていないことから,学術的・文献学的には,評価が難しいが,後世への影響の大きさという点では,簡単には無視できない物語集である。有名な『トゥーランドット』をはじめ,ゴッツィ(Carlo Gozzi: 1720〜1806)の寓話劇のいくつかが,この『千一日物語』の中の物語を利用している。 ゴッツィが1772年に発表した『鹿の王』『トゥーランドット』『蛇女』の3つの寓話劇は,いずれも『千一日物語』に基づいている。『蛇女』はワーグナー(Richard Wagner: 1813-83)が処女作『妖精』として1833年にオペラ化した作品だが,「ルスヴァンシャド王とシェーリスタニ王女の物語」(16日〜30日) が原作である。妖精の王女が人間界の王と幾多の試練ののちに結ばれるという内容である。謎かけ姫の物語として知られる『トゥーランドット』は,ゴッツィの劇作以降,多くの作曲家によりオペラ化されて有名になったが,「カラフ王子とシナの王女の物語」(45日〜82日) が原作である。『鹿の王』の原作は「モスルの王ビン・オルトクの息子ファドララー王子の物語」(48日〜60日)で,「カラフ王子の物語」の途中に挿入されている。祖国の町アストラカンを追われたカラフ王子が、両親と一緒に三人でカフカス山地などで、苦難の旅をしいられる。疲労もピークに差しかかった頃、ジャイクという名の町にやってくる。町の入口で老人を見かけ話しかけると、哀れに思ったその老人は、自分の家に三人を案内し,自分の辛い過去の経験を語って元気づけようとする。その話が「ファドララー王子の物語」である。また,ゴッツィ以外の作品としては,アンデルセン(Hans Christian Andersen: 1805〜75)の『飛ぶトランク』(1839)の原作が,『千一日物語』に含まれている「マレクとシリン王女の物語」(109日〜115日) であることも知られている(7)。
『千一日物語』は,その書名からも推察されるように、『千一夜物語』を意識して作られたといえる。『千一夜物語』は,女性に反感を持つ王子という観点で書かれているのに対し、『千一日物語』は男性を嫌悪する王女という観点で書かれていることも,対照的である。その違いは,物語全体の枠物語の設定からも明らかなので,次にそれぞれの枠物語の概要についてみていくことにする。
3.『千一夜物語』の枠物語
『千一夜物語』の枠物語については,特に詳しく説明するまでもないほど,よく知られているが,その有名な枠物語は,以下のようなものである。
中央アジアの名邑サマルカンドに君臨するシャー・ザマーン王はインドとシナとを支配するその兄,サーサーン家のシャハリヤール王に招かれて,その都に向かって門出をした。途中,土産物を忘れたことに気づいて居城にひきかえして見ると,その妃が自分を裏切っているところを見てしまった。不貞の妻らを成敗してから,兄の都に赴いたけれども心は楽しまない。身体もやせ衰えた。しかし,ある日,兄なる王が狩猟に出たあと,ふと窓から兄の妻もまた夫の留守に不義の快楽にふけっている有様を目撃し,兄は自分よりもさらに不幸であったことを知り,にわかに心の安まるを覚え,顔色もよくなった。こうしてシャハラザードの物語は1001夜の間,毎晩続くことになるが,1001夜目の話が終わったあと,状況は一変する。シャハラザードは,この間,王との間に3人の息子を産んでおり,王にこの3人の息子を連れて来てくれるようにと懇願する。そして,この3人の幼い息子が母を失うことがないよう,殺害を思い留まるよう訴える。すると王は,もうすでに殺害する意思がなくなっていたことを告白し,その後は幸福な生活を送るという結末となる。(9)兄なる王は狩猟から戻って,弟の態度が変わっているのを見て不思議がり,そのわけをたずね,事の真相を聞いて驚く。そして弟と相携えてひそかに王宮を抜けて旅に出た。
不幸な兄弟二人は山野をさまよったあげく,ある日,海岸の一樹のもとで休んでいたが,そのとき海中から巨大なイフリート(魔王)が出現する。二人は樹上にかくれたところ,魔王は持っていた櫃の中から美女を出し,その膝を枕に樹下で眠ってしまった。 美女は樹上の兄弟を見つけて,おりて来るよう合図し,自分のいうことに従わねば魔王を呼び起こすと強迫して,二人の兄弟を誘惑した。 美女はかつて魔王にかどわかされ,櫃の中に七つの錠で密封されて,大海の底にかくされて来たが,それでもこの兄弟の王たちにあう前にすでに570人の男を誘惑したと告白する。 われわれ女人は本当にして見たいことは,どんな事情のもとでもしとげて見せるものだともいった。
二人の王は兄王の都に戻り,兄王はまずその妃らを斬らしめ,それから後は,新妻を迎えるごとに,翌日はこれを斬首せしめるならわしとなった。こうして三年の歳月がすぎ去ったというのであるが,弟君の方のその後の消息については,この物語はなんら触れるところがない。
一日,シャハリヤール王の大臣は意気消沈して自宅に戻って来た。王から新しい妃を探せと命じられたが,もはやその都には王のもとに差出すべきおとめは一人も残っていないとわかったからである。けれど差出さねば王の怒りに触れて身も家も破滅の外はない。思い屈しているさまを見たのはその娘のシャハラザードであった。自ら進んで王のもとにいきたいと父に申し出た。父なる大臣もはじめは拒んだけれど,ついに説き落とされて娘をつれて王のもとに赴いた。美にして賢,そして無限の学識を備えたシャハラザードは王に請うてその妹ドゥンヤーザードをも宮中に呼んでもらい,寝所に侍らせるのであるが,この妹が一役買って,その夜,姉に物語をせがむ。姉は王の許しを得て,商人と魔王の話をはじめる。その話術は巧妙をきわめ,王の心を捕えて終夜あかすことがない。しかし,ますます佳境に入ったところで,夜が白んで来るのでシャハラザードは話を中断してしまう。王はこれを殺したならば,話のつづきがきけぬと思うものだから,恒例を破って,第二夜をも共にする。妹娘はまた物語のつづきをせがみ,王ももちろんこれを許して,その夜も姉娘の話で明けてしまう。(8)
4.『千一日物語』の枠物語
これに対し,『千一夜物語』と同様,枠物語の形式をとっている『千一日物語』の発端は,次の通りである。
カシュミールの王トグリュル=ベイには,ファリュヒルス王子とファリュヒナス王女という二人の子供がいた。ファリュヒナス王女は、ある日、夢を見た。わなにかかった牡鹿が雌鹿によって助けられた。そのあと、その雌鹿が同じわなにかかってしまったが,牡鹿はその雌鹿を助けることなく、そのまま置き去りにした。王女は,ケサヤ神が男性の不実さを警告しようとしたのだと思った。有力な王侯からの結婚の申し込みをすべて断った。父王は娘の高慢さによって国が災難に見舞われることを恐れ、乳母に王女の考えを変えさせるように頼んだ。乳母は、数多くの物語を語ってきかせることにした。それらは、毎朝、午前中に語られた。(10)こうして物語が始まるのであるが,夜ではなく,午前中に語られるという設定は,『千一日物語』という命名に由来するのであろう。 すべての求婚を退ける王女は,この物語集に含まれるトゥーランドットの物語にも登場する。 謎解きを結婚の条件として課すか課さないかという違いはあるが,すべての男性を嫌悪するという点では共通している。
さてその後,1001日間にわたって物語が語られることになるはずなのだが,先に触れたように,190日目の話が終わると,その次は960日目の話となって,日数の上では770日近く欠けている。 最後の1001日目になっても,乳母の話によっては王女の心は一向に変わらず,非常に長い結末が続く。 その概要は次の通りである。
カシュミールの国では,王子が不治の病にかかり,王女も物語を聞くどころの状況ではなくなった。国王はあらゆる手を尽くすが,王子は一向に直らない。ある日,ケサヤ神殿の祭司を呼ぶと,その祈祷によって王子の病気が治る。王女はその祭司に会いたいと思うが,王女は会うことを許されない。神の意志に反して男性を嫌悪し続けているというのが,その理由である。王女は次第に考えを改めると,祭司と会うことを許される。神殿に入ると,壁に雌鹿の絵が描かれているのを見た。 雌鹿がわなにかかった絵,牡鹿が雌鹿を助けようとしている絵,そして牡鹿がわなにかかったのに,それを何もせずに見ているだけの雌鹿が描かれた絵である。 王女は自分の夢とは正反対の絵を見て愕然とする。こうして3人は旅に出るが,あるきれいな庭園のある場所へやってくると,突然,祭司の体が震え始め,まるで死んだようになる。 祭司はこれから命をかけた重大な任務があると言い残し,庭園の奥の家へと出かけるが,やがて無事に王女らのところに戻ってくる。 そして,これまでの経緯を話し始める。改心した王女は,祭司に何をすべきかを尋ねる。ペルシアの美貌の王子ファリュヒシャドが,夢の中でファルヒナス王女を見て恋焦がれたが,王女の男性嫌悪ゆえに悩み苦しんでいる。 この王子のもとへ行くべきだと祭司は答える。娘の心変わりに喜んだ王は,ペルシアの王子のもとへ,王女と乳母と祭司の三人だけで出かけることを許す。
私は本当は祭司ではなく,ファリュヒシャド王子の腹心シモルグである。王子は原因不明の病にかかり,一向に治る気配がない。王子からの信頼の厚い私に国王はその訳を尋ねさせた。すると,王子はある王女の夢を見たという。しかし王女は夢で牡鹿の不実な振る舞いを見て,すべての男性を嫌悪し,結婚する気がないという。夢の中でこの王女にすげなくされた王子は,それ以来,病気になっている。私は国王に,王子の病が治るには,旅に出てこの王女を探すしかないと告げた。こう語り終えると,シモルグはファルヒナス王女を連れて庭園の奥の家まで行く。ギュルナーゼが迎えてくれ,シモルグの勇気を称える。やがて,これまでメーレファによって動物の姿に変えられていたたくさんの男女が,人間の姿に戻され,皆大喜びで自分の国に帰って行く。もとの姿に戻った人間の中に,ファリュヒシャド王子もいることがわかる。シモルグは歓喜し,早速,ファルヒナス王女と対面させる。二人は結婚し,シモルグもギュルナーゼと結婚する。ガズニンの国に戻った一行は,王の希望で,ファリュヒシャド王子が王となる。その後,この国の統治は,シモルグにまかされ,ファリュヒシャド王子は故郷のペルシアの国に戻り,そこで王位を継ぐ。(11)王子と私はまずガズニンの国に着いた。ここで,息子を失ったばかりの王に歓待された。ガズニンの国の王子は,カシュミールの王女に恋したものの,彼女は不実な牡鹿の夢によってあらゆる求婚を受け入れない。それで王子は落胆して死んだのだと言う。ファリュヒシャド王子は,夢に見た王女が実在の王女で,カシュミールにいることを知って喜んだ。 それで,私はカシュミールの国へ出かけたのである。
旅の途中,この魔法の庭園で,邪悪な魔女メーレファの手にかかり,動物に変身させられてしまった。ある日,メーレファの妹ギュルナーゼが,私を動物の体から人間の姿に戻してくれたのだった。感謝した私は,自分の本来の目的を彼女に告げた。すると彼女は助力を申し出てくれ,私にカシュミールで祭司となることを勧めた。 カシュミールで私は,毎晩,神殿で彼女の指示を仰いだ。ファリュヒルス王子の病気を治すことができたのも,彼女のお陰である。あなたとのやり取りについても,すべて彼女の指示通りに動いたのだった。今日,ここまで無事にやってこれたのだが,メーレファは私が逃げたことに気がついたのである。 先程,私は奥の家へ行き,ギュルナーゼに会いに行ったが,私を人間の姿に戻して逃げさせた罰として,彼女は鎖につながれていた。私は寝ていたメーレファの首を剣で斬り落とし,鎖のカギの入った袋を無事に取り返してきた。こうして,邪悪な魔女をかたづけることができたのである。
以上が『千一日物語』の結末であるが,『千一夜物語』と比べると,話が複雑で,非常に込み入っている。ただし,男性を嫌悪していた王女が,最後には改心し,結婚して幸福になるという点では,女性を憎悪していた王が改心してハッピーエンドとなる『千一夜物語』と好対照であるとはいえよう。
5.冷血王女のモチーフについて
さて,この『千一日物語』の枠物語の発端と似た内容の民話がイランに伝わっているので,最後に紹介しておく。「エブラーヒーム王子と冷血王女」という題の非常に興味深い民話である。
エブラーヒーム王子は,ある日,狩りに出かける。洞窟の中で1枚の肖像画を持って泣いている老人を見つける。 その肖像画に描かれた女性は冷血王女で,誰もが彼女に心を奪われるが,彼女は誰とも結婚しようとせず,求婚者をすべて殺してしまうという。エブラーヒーム王子も一目見てでこの女性に心を奪われ,彼女の住む中国へと出かける。結末は『千一日物語』での複雑なものとは異なって,非常にあっさりしていてわかりやすいが,夢で見た牡鹿の不誠実な振るまいによって男性を嫌悪するという話の発端は,ほとんど同じである。また中国の王女という点では,トゥーランドットとも共通している。ただし,トゥーランドットは,謎が解けない求婚者を殺すのに対し,民話の冷血王女は無条件にすべての求婚者を殺す点で,残虐性がより強い。中国に着いた王子は,ある老女に助けを求める。王子に同情した老女は,王女と会い,結婚しない理由を聞く。王女の答は次のようなものだった。
「ある晩,私は夢を見ました。夢の中で,私は雌鹿になって荒野を歩いて,草を食べていました。すると,近くに牡鹿が現れて,仲良くなりました。そうしているうちに,牡鹿の足がネズミの穴に落ちました。どんなにがんばっても足は穴から抜けませんでした。私は,1ファルサング(約6キロ)の道のりを歩いて,口の中に水を入れて持ってきて,ネズミの穴に注ぎました。すると,牡鹿は足を抜くことができました。そして,また歩きはじめると,今度は私の足が穴に落ちて抜けなくなりました。牡鹿は水をもとめて行き,戻ってきませんでした。ここで夢から覚め,そのときから私はこう決めたのです。どんなに男の人が求婚にきても,殺すことにしよう。というのも,男というのは薄情だからです。」
この話を聞いた老女は,王子にハンマーム(公衆浴場)を作り,そこに絵を描くよう指示する。 脱衣所に雄雌2頭の鹿が草を食べている絵。2階に牡鹿がネズミの穴に落ちて,雌鹿が水を持って穴に注いでいる絵。3階に雌鹿の足が穴に落ち牡鹿が水を求めて泉に行ったところで,猟師に弓で射られている絵。ハンマーム建立の噂を聞いた冷血王女も,このハンマームを見に行く。そして,絵を見た王女は,牡鹿に悪意がなかったことを知り,もう求婚者を殺すことはやめ,いい伴侶を見つけようと改心する。やがて,王女もエブラーヒーム王子を気に入り,二人はめでたく結婚する。(12)
『千一夜物語』などの東洋の物語集は,女性の不義密通を扱った物語が多く含まれていることでも知られているが,それと釣り合いをとる意味合いもあるのか,男性を嫌悪する王女の物語もいくつか存在するという事実は興味深いものがある。どちらも男女間の物語の両極端という感じではあるが,それぞれが『千一夜物語』と『千一日物語』の枠物語を形成しているという事実は,物語を考える上で貴重な材料を提供しているようにも思われる。
(1) Larousse, Pierre: Grand dictionnaire universel du XIXe siècle. Nîmes (Lacour) 1991, Tome 18, S.709.
(2) 林田伸一: 最盛期の絶対王政 〔世界歴史大系 フランス史2 (山川出版社) 1996, 201〜243頁〕 231頁。
(3) ジョージ・ピーボディ・グーチ(林健太郎訳): ルイ十五世 ブルボン王朝の衰亡 (中央公論社) 1994, 32頁。
(4) Fähndrich, Hartmut: Nachwort. In: Petis de la Croix, François: Tausendundein Tag. Persische Märchen. Übers. von Marie-Henriette Müller. Zürich (Manesse) 1993. S.621-629, hier S.628.
(5) Pétis de la Croix, François: a.a.O., S.5f.
(6) Aubaniac, Robert: L'énigmatique Turandot de Puccini. Aix-en-Provence (Édisud) 1995, S.20.
(7) Scherf, Walter: Das Märchenlexikon. München (Beck) 1995. S.323.
(8) 前嶋信次訳: アラビアン・ナイト(1) (平凡社) 1966, 4〜14頁。 引用は訳者あとがき(258〜260頁)による。
(9) 池田修訳: アラビアン・ナイト(18) (平凡社) 1992, 423〜429頁。
(10) Pétis de la Croix, François: a.a.O., S.7ff.
(11) Pétis de la Croix, François: a.a.O., S.597ff.
(12) 竹原新: アンジャヴィー・シーラーズィー編『イランの民話』の話型分類とモチーフ一覧 (東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所) 2000, 11〜17頁。