「香川大学経済論叢」第81巻第3号(2008年12月発行)掲載

ペティ・ド・ラ・クロワ   『カラフ王子とシナの王女の物語』


【訳者付記】

「カラフ王子とシナの王女の物語」(Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine) は、ペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』(注17)の45日から82日までの物語である。カルロ・ゴッツィが寓話劇『トゥーランドット』の原作としてこの物語を利用している。このゴッツィの寓話劇をもとに、さまざまな作曲家がオペラを作曲しているが、もっとも有名なのは、今年生誕150周年を迎えたプッチーニの遺作『トゥーランドット』である。なお、途中の48日から60日にかけて、『モスルの王ビン・オルトクの息子、ファドララー王子の物語』が挿入され、ジャイクでカラフ一家をもてなした老人の過去の物語が語られるが、カラフ王子の物語とは無関係なので省略した(注18)。 この物語を読んでいただければ一目瞭然ではあるが、ゴッツィの劇やプッチーニのオペラの前史・背景が詳しく書かれているので、オペラを理解して楽しむ上でも、大変に興味深いと思われる。ゴッツィの寓話劇やプッチーニのオペラでは、舞台はいきなり北京から始まり、トゥーランドットが作品の主人公として扱われているが、原作の物語では、カラフ王子が主人公で、父母であるティムール王とエルマス王妃とともに国を追われ、苦難の旅を経て、北京に着くまでの話が、物語の前半部分を占めている。 カラフが北京に到着するまでの苦難の行程については、プッチーニのオペラでは詳しくは触れられていない。ゴッツィの寓話劇では、劇の冒頭で、カラフとバラク(原作には登場しないカラフのかつての教育係)が偶然、北京で再会したときの二人の台詞の中で、この物語の前半部分が、要領よく簡潔に語られている(注19)。

  バラク   「アストラハン近郊の戦いで大敗北を喫し、ノガイの民は敗走。戦場ではホラズムのスルタンが暴虐の限りを尽くし、殿下の国の王座を強奪。心を痛めて都へ逃げ帰ると、殿下とお父上ティムール陛下は、戦いで討死なされたとの噂。しばし涙に暮れましたが、せめて母君エルマス様を敵の刃よりお救い申さねばと思い、急いで御殿へ馳せ参じますと、残念ながら、どこにもお姿は見当たらず。すでにホラズムのスルタンが途中ではばむ者もなく、アルトラハンの門を意気揚々と入場。絶望しながら都を逃れ、何ヵ月も流浪の旅を続け、こうして北京にたどり着きました。」
  カラフ   「あの戦いのあとの惨憺たる状況の中、父上とわしは、宮殿の宝庫にある、世にも尊い宝玉を取ろうと、アストラハンの王宮に急いで戻り、百姓の姿に身をやつし、母上を伴い、密かに都を逃れ出たのだ。山を越え、荒野を越え、逃走を続けたが、あろうことか、カフカス山中で族に襲われ、身に着けていたもの、ことごとく奪われた。何とか命だけは助かったが、飢渇の苦しみの中、移動は困難を極めた。どれだけ年老いた父上を肩に背負い、か弱い母上を抱きかかえたことか。絶望にひしがれて死のうとした父上を思い止まらせたのも何百回。力も失せ、心労で倒れた母上をどれだけ励ました続けたことだろう。ある日のこと、ようやくジャイクの町にたどり着いた。わしは額に羞恥の汗を滴らせ、モスクの入口で乞食を致した。何とか命をつなぐだけの生活はできた。しかし、ホラズムの残忍なスルタン、戦いに勝ったのみではあきたらず、われらを捕らえて引き連れくれば、莫大な恩賞を与えるとの布告。人相書まで付した手紙を、各地の王に送ったのだ。ジャイクの王もわられを探す命令をくだしたことを、幸いなことに聞き及び、取るものも取り敢えず、命からがら逃れ出たものの、前にもまして窮乏と苦痛は増すばかり。」
  バラク   「ああ、殿下、承れば承るほどお痛々しい。ティムール陛下も、お妃も、王子様まで、何とお気の毒なことでございましょう。両陛下は、まだつつがなくお過ごしのことでしょうか。」
  カラフ   「まだお二人とも元気でおられる。もっとわしの話を続けさせてくれ。それからわれらはカラザン王国に滞在した。父上母上を養うため、わしはどんな仕事でもした。するとカラザンのカイコバート王(注20)の娘アデルマ姫、わしが賎しい仕事をするべき人間ではないと推測し、しきりに同情していたわってくれたが、一難去ってまた一難、理由はわからないが、王はシナのアルトゥン皇帝に向って戦いを挑み(注21)、かえって散々に打ち負かされたのだ。カイコバート王は打ち倒され、国は荒らされ、一族は皆殺し。アデルマ姫も川で溺れて死んだとの噂。われらはカラザンの国を逃れ、ベルラスまでたどり着いた。そこで四年ものあいだ,生活のために人足として働き,とんでもない重いものも運んだのだ。」
  バラク   「殿下、もうお話をお止めくだされ。しかし殿下、お見受けするに、御身なりもご立派な御様子。さては運が向いて参ったのでございますか。」
  カラフ   「そうなのだ。思いもかけず運が向いて参った。ベルラスのアリンガー王の寵愛していた鷹が逃げた。ちょうどわしがその鳥を見つけて捕え、急いで届け出ると、王は大いに喜んで,お前はいかなる者かと尋ねた。もちろん身分は明さず、下賎な者で、ただ両親を養うために人足をして働いていると答えると,父母を救貧院で一生安楽に過させるよう王は命じたのだ。さらにこのお金の入った財布,一頭の名馬,この立派な服をくれた。それで一旗揚げようと思い旅に出て,北京へ来たのだ。」

もちろん、この台詞は原作を忠実に要約しているわけではない。ジャイクで老人にもてなされた話は出てこないし,ベルラスで四年も人足をしたという話も原作にはない。また流浪中にアデルマ王女のカラザン王国に立ち寄るという話も、ゴッツィの創作である。原作ではカタラン王国のアデルミュルク王女が、物語の後半で突然に登場するだけである。彼女は原作では自害して死んでしまうが、ゴッツィの劇では、自害しようとはするものの、周囲に止められ、一命はとりとめ、奴隷の身分から解放されて、自国に戻ることになる。 さて、この物語を読むと、カラフがアストラハンを発ってからの苦難の行程を、実際にたどってみたいような気持ちにもかられるが、地図で確認してみると、訳注でも触れたように、地理的にかなりの矛盾のあることがわかる。アストラハンからジャイクまでは、ただの平原に過ぎないが、この物語では実際には別の場所にあるカフカス山地を通ってから到着する設定になっている。ティムール王を絶望のどん底に突き落とした絶壁も架空のもであろう。 ジャイクの次の滞在地で、イルティシュ川の先にあるとされるベルラス族の領土は、具体的な場所を突き止めることは困難だが、さらにそこから北京までの道程については、物語の作者自身、「シナまでの旅の詳細については,何も記していない」と書いているように、いきなり北京に話が飛んでいる。具体的にどのルートを通って北京まで行ったのかは、まったく不明である。

北京到着以降の物語は、劇やオペラのストーリーと重なってくるが、もちろん話やその展開には相違点も多い。プッチーニのオペラでは、ペルシアの王子の処刑の場面に姿を現したトゥーランドットに魅せられて謎解きに挑戦する。原作やゴッツィの劇では、サマルカンドの王子が処刑されたあと、この王子の教師が王子の所有していたトゥーランドットの肖像画を地面に投げつけたのを拾い上げ、それを見て魅せられて、謎解きを決意するという設定である。処刑の場にトゥーランドットが登場するわけではない。

またオペラでは冒頭のト書きに「城壁の上には、処刑された王子たちの首をのせた杭が立っている」と書かれているが、原作では、処刑された王子は象牙と黒檀でできた棺に入れられ、特別に作られたドームに丁重に埋葬されている。この設定を変えたのはゴッツィで、劇の冒頭のト書きには、「北京の市門の上には、丸刈りのものからトルコ風髪形のものまで、たくさんの首の刺さった鉄の槍が立っている」となっている。

それから劇でもオペラでも、謎の数は三つと決まっているが、原作では特に決まりはなく、これまでどの王子もひとつの謎さえ正答できなかったので、トゥーランドットは謎を三つしか用意していなかったということになっている。彼女は翌日また謎を出すことをアルトゥン王に希望するが、王は「今すぐもうひとつ謎を出すことは認めるが、明日まで考えてから出すのは認めない」ということで、結局、トゥーランドットの謎は三つということになっている。

謎かけ姫の物語は、かなり古くから中近東で伝わってきたと考えられるが(注22)、姫の名前がトゥーランドットとなるのは、このカラフ王子の物語が最初である。正確には「トゥーランの娘」という意味の Tourandocte であり(なお原語での発音ではあまり大きな違いもないと考えられるので、一般的に流布しているトゥーランドットとした)、中国風の名前とは思われない。シナの王のアルトゥン王も原語ではアルトゥン・ハン(Altoun-Khan) であり、皇帝ではなく、遊牧民の部族の君主の称号であるハンであるのも興味深い。

なお、訳出にあたっては、下記のドイツ語訳を主に参考にし、章分けは訳者の判断により行った。

Tausendundein Tag. Orientalische Erzählungen niedergeschrieben von dem Derwisch Mokles. Ins Deutsche übertragen von Konrad Haemmerling. München (Wilhelm Heyne) 1962.

Erzählungen aus Tausendundein Tag. Vermehrt um andere morgenländische Geschichten hrg. in zwei Bänden von Paul Ernst. Übers. von Felic Paul Greve. Frankfurt a. M. (Insel) 1963 (Revidierter Neudruck der Ausgabe von 1909).

Pétis de la Croix, François: Tausendundein Tag. Persische Märchen. Übers. von Marie- Henriette Müller. Zürich (Manesse) 1993.

また、フランス語原文も、適宜参照した。

Pétis de la Croix, François: Les Mille et un Jours, Contes Persans. Nouvelle Édition. Paris (Société du Panthéon Littéraire) 1843.


(17) 『千一日物語』については、拙稿「『千一日物語』の枠物語」『香川大学経済論叢』 第75巻第3号 2002年、205〜214頁を参照。

(18)  『ファドララー王子の物語』については、拙稿「ゴッツィの『鹿の王』」『香川大学経済論叢』第77巻第3号 2004年、115〜125頁を参照

(19) 以下のゴッツィの訳出にあたり、新潮オペラCDブック12「プッチーニ:トゥーランドット」(永竹由幸監修、新潮社、1999年)所収のゴッツィ「トウランドット姫」(高橋邦太郎訳)を参照した。

(20) リヒャルト・シュトラウスの『影のない女』では、ゴッツィの『トゥーランドット』からカイコバートとバラクの名前が流用されている

(21) 戦いを挑んだ理由は 劇の展開の中で明らかになる。それによると、アデルマの兄がトゥーランドットに魅せられて謎解きに挑戦するが、失敗して殺されてしまい、それに怒ったカイコバート王が戦いを挑んだのだという。

(22)  拙稿「トゥーランドット物語の起源」 『香川大学経済論叢』 第71巻第2号 1998年、285〜306頁を参照。


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