ヴァーグナーは示導動機(ライトモチーフ)という手法で,作品に有機的な統一を与えることに成功した。 この手法は,作品中の人物,事柄,観念などを特定の音型で示すものだが,『ニーベルングの指環』では,示導動機が網の目のように張りめぐらされていることでも知られている。 この手法の片鱗が,あまり上演の機会に恵まれない処女作『妖精』にも見られることは,もっと注目されてよいように思われる。 まだ20歳のヴァーグナーが精魂を傾けて創作した『妖精』は,『友人たちへの伝言』(1851年)の中で,当時のロマンティック・オペラの影響を受け,ヴェーバーやマルシュナーのオペラを模倣したと自ら述べてはいるものの (1), 詳細に検討してみると,その後のヴァーグナーの作品の萌芽があちこちに見受けられるからである。 この小論では,『妖精』について,示導動機の役割を中心に,作品の成立過程や台本の典拠をも含めて考察する。
1. 『妖精』の成立過程
ヴァーグナーが完成させた最初のオペラが『妖精』であるが,この処女作の成立過程を振り返ると,さすがのヴァーグナーも,まだ家族から多大の影響を受けていることがわかる。ヴァーグナーは兄や姉が歌手や女優として活躍する劇場一家の家庭に育っている。1833年1月,ヴァーグナーは兄アルベルトが歌手及び演出家として活躍していたヴュルツブルクを訪れ,ほぼ1年間過ごし,合唱指揮者として劇場での実践的な演奏活動の第一歩を踏み出す。すでに書き上げていた『妖精』の台本も持参し,その地で作曲にも取りかかる。作曲にあたっては,10歳年長で女優の姉ロザーリエの影響も大きい。ヴァーグナーは,『わが生涯』の中で,次のように書いている。
私を見捨てたかと見えたこの姉が,やっとのことで私の仕事に注目し,明らかな期待を示すところまでこぎつけたことは,私の功名心を格別刺激する結果となった。こうして,ロザーリエに対しての甘い夢見るような想いが私の心に芽生えたのである。その清純さと混じりけのない情熱とは,男女間の高貴この上ない関係にも等しいものであった。(2)凄絶な結末で終わる『婚礼』を破棄し,ハッピーエンドで終わる『妖精』に着手することにしたのも,ロザーリエの意向に沿うためであった。1833年12月11日のロザーリエ宛ての手紙は,『妖精』作曲時の様子を伝える資料として重要な記録であるが,極めて愛情に満ちた表現でつづられている。
私は,音符ひとつ書くたびに,あなたのことを ─ああ姉上のことを─ 考えていたのです。この思いこそが,私を励ましたのでした。(3)『妖精』は,1834年1月に作曲が完了し,ロザーリエも女優としての人脈を活用して,あれこれ初演のために手を尽くてくれたが,結局,日の目を見ずに終わってしまう。なお, 1836年に結婚したロザーリエは,1837年10月12日,出産の数日後に死去する。リガでその報を受け取ったヴァーグナーは,次のように書いている。
身近にその存在を感じている人物の死を実感として受けとめたのは,わが人生において,これが最初の体験であった。この姉の死は,まさしく意味深長な運命の打撃となって,私の心を揺り動かしたものだ。彼女を愛し尊敬するがゆえに,私はかつて精力的に己が青春の逸脱からわが身を転じたのだ。彼女の共感を得んがために,私は大がかりな初期の労作に格別精を出したのだ。(4)『妖精』の創作にあたっての姉ロザーリエの重要性が,一連のヴァーグナー自身の記録からも十分に理解されるが,こうした異性の兄弟姉妹間の愛情は,ヴァーグナーの作品の中にも投影されていると考えることもできる。ヴァーグナーの作品では,主人公は母のいないケースがほとんどだが,兄弟姉妹が親密で情愛に満ちた関係を持つケースは少なくないからである(5)。 その中でも,『ヴァルキューレ』におけるジークムントとジークリンデの近親相姦が有名だが,初期のオペラにおいても,兄と妹の強い絆が見受けられる。『妖精』におけるアーリンダールとローラ,『恋愛禁制』におけるクラウディオとイザベラ,そして『リエンツィ』におけるリエンツィとイレーネ。『妖精』での妹ローラは,戦乙女としてヴァルキューレたちの先駆をなす点でも興味深く,兄との関係がその後の作品ほど特に深いわけではないが,初期三作すべてに兄妹の設定が見られることは,注目に値する。
2. ゲールノートのロマンツェと魔女の動機
『妖精』にはヴァーグナーの円熟期の作品に通じる要素が数多く見出せるが,その中でも,もっとも注目されるのが,第1幕のゲールノートのロマンツェでの〈魔女の動機〉の扱いである。その後の重要な場面でこの動機が何度か登場し,示導動機の先駆として,『妖精』の中でも高く評価されているからである。トラモント国の王子アーリンダールは妖精のアーダに夢中になり,自分の国に戻ることさえ拒むので,家臣のゲールノートが,王に帰国を促すために歌うのが,このロマンツェである。魔女ディルノヴァツの物語を引き合いに出し,アーダもこのような魔女に違いないのだから,諦めるようにと説得する。
ロマンツェ
かつて、悪い魔女がいた,
ディルノヴァツという名で
とても醜く年老いていて,
広く知れわたっていた。
しかし,指に指輪をはめると,
若くて美しい姿に変身し,
誰も一生涯お目にかかれないような
美しい姿だった。Romanze
War einst 'ne böse Hexe wohl,
Frau Dilnovaz genannt,
die war so häßlich und so alt,
als es nur je bekannt! -
Doch trug sie einen Ring am Finger,
der machte jung und schön,
als hätte man in seinem Leben
nichts Schöneres geseh'n.
彼女はある王のもとへやってきて,
いつも王を惑わした。
王は彼女を王妃にし,
夫人に迎えた。
王は彼女に盲目のように夢中で,
何も聞こえず何も見えず,
自分の周囲で起こったことに,
決して気づくことがなかった。
Sie kam zu einem König so,
betört' ihn allzumal,
er machte sie zur Königin,
er nahm sie zum Gemahl! -
Er war so blind in sie vernarret,
daß er nicht hört' und sah,
und daß er nimmermehr gewahrte,
was um ihn her geschah.
ある日、彼女が別の男の腕の中で
邪悪な愛に燃えるのを王は見た。
王はすぐさま剣を抜き,
怒りに燃えて彼女に切りかかった。
剣は彼女が指輪をはめていた
小さな指に当たっただけだが,
王がすぐさま目にしたものは,
愛した人の老いた醜い姿だった。
Einst traf er sie in fremdem Arm
in arger Liebesglut,
da zog er seinen Degen schnell
und hieb nach ihr voll Wut! -
Doch traf er nur den kleinen Finger,
an dem sie trug den Ring,
da sah er bald in der Geliebten
ein altes häßlich' Ding. (6)
全体は三つの節からなり,それぞれの節は民謡風の韻律で書かれた8行からできている。どの節も,冒頭の2小節は,〈魔女の動機〉と呼ばれる音形で始まる(譜例1)。 このゲールノートのロマンツェの〈魔女の動機〉が,オペラ全体の中で示導動機のように使用され重要な役割を担っていることは,シュテルンフェルト以来,指摘され続けている。 「主人公アーリンダールの仲間が,アーダは彼を駄目にする悪い魔女であるからと,アーリンダールを説得しようとする。アーリンダールは,アーダによって恐ろしい試練にさらされ,ついに悪い魔女だと彼女を呪う」というのが,このオペラのドラマの骨格と考えられるからである(7)。
第2幕の試練は,アーリンダールが二度の恐ろしい見せかけの衝撃に耐えて,アーダを呪わずに済ませられるかどうかにかかっている。この試練に耐えることができないと,妖精のアーダは石に姿を変え,人間としてアーリンダールと一緒に暮らすことができなくなる。まず最初の試練では,アーダはアーリンダールとのかわいい二人の子供を火の中に投げ入れる。アーリンダールはもちろん強いショックを受けるが,アーダに「誓いを忘れるな」と諭されて自制する。二度目は,自国の軍が壊滅的な打撃を受け,その敵の軍の先頭に立っていたのはアーダだったという報を受ける。さすがのアーリンダールも自制心を失い,アーダへの疑いを抱き始める。アーリンダールは「本当に彼女だったのか」と聞き返すが,このすぐあとで,オーケストラだけで〈魔女の動機〉がフルートの弱音で奏でられる。 間違いなくアーダだったとの返答を受けると,アーリンダールはアーダへの疑いを深めていく。 このすぐあとのアーダの「私のアーリンダール!」の言葉とともに,〈魔女の動機〉が今度はト短調のフォルテッシモの強奏で響き渡る(譜例2)。 アーリンダールの怒りはますます高まり,アーダの「やめて!」と制する叫びとともに,また〈魔女の動機〉が一音高いイ短調のフォルテッシモで鳴らされる。 アーダの必死の嘆願のような叫びと重なる〈魔女の動機〉は,切々と心に染み入る音楽として聞き手には響くが,アーリンダールにとっては,アーダが魔女としか思えなくなってしまったという心の動きを暗示しているのであろう。 〈魔女の動機〉はたった2小節に過ぎないが,その効果は絶大である。ヴァーグナー自身,『わが生涯』の中でこの作品を紹介した際に,「悪い魔女に誘惑されたのだという妄想に陥る」と述べている(8)。 ヴェステルンハーゲンは,この〈魔女の動機〉の示導動機的な使用について「おそらくまったく意識せずに(unwillkührlich)だろう」(9)と述べているが,ヴァーグナー自身の説明から考えても,まったく意図せずに〈魔女の動機〉を使用したとも思えない。
さて,オペラはこのあと,アーダの制止にも耳を貸さず,アーリンダールは誓いを忘れてアーダを呪ってしまい,アーダは石に姿を変える。このあと第3幕で,援助者グロマの助力を得て,再度試練に挑んだアーリンダールが,竪琴を使って歌を歌うことにより,石になったアーダはもとの姿に戻り,ハッピーエンドで終わるが,オペラ全体の最大のクライマックスは,劇的な第2幕のフィナーレといえる。ここでゲールノートのロマンツェの〈魔女の動機〉が巧みに利用されていることに,ヴァーグナーの劇的嗅覚力の鋭さを感じ取ってもよかろう。『妖精』の第2幕フィナーレに関しては,ヴァーグナー自身,かなりの自信をもっていたようで,作曲の10年後の1843年に書き上げられた 『自伝的素描』の中で,「とくに二幕目のフィナーレは非常な効果が期待された」(10) と書いているほどである。この「非常な効果(große Wirkung)」の具体例については特に触れられてはいないが,重唱を含む大規模なアンサンブルの巧みな作曲法とともに,魔女の動機の使用も、作曲者自身の狙った効果の一つであると言えるであろう。
オペラ全曲の中での特定の曲がオペラ全体の鍵となる作例としては,後年の『さまよえるオランダ人』のゼンタのバラードがある。ゲールノートのロマンツェもゼンタのバラードも,全曲の中で異彩を放ち,印象的な音楽が付されている。また,どちらも3節からできた有節構造である点も共通している。ただし,ゲールノートのロマンツェは,どの節も最初から最後まで同じテンポのまま続くが,ゼンタのバラードはどの節も後半はPiu lento と遅めのテンポになり,一般に〈救済の動機〉と呼ばれる旋律にのって歌われる。この後半の部分,第1節ではゼンタだけが歌う。第2節では途中から女声合唱も加わり,第3節は,前半部を歌ったゼンタが疲労困憊して椅子に倒れてしまい,しばらくの間,女声合唱だけで後半部が歌われる。ゼンタは最後に,〈私こそあなたを真心で救う女性です〉と歌うだけである(11)。 こうした点でも,かなり工夫の跡がうかがえる。内容に関しては,ゼンタのバラードの方が,オペラ全体のストーリーと密接に結びつき,ヒロインであるゼンタが最後でオランダ人を救済するという信念を語るのに対して,ゲールノートのロマンツェの方は,オペラ全体のストーリーとは直接には関係のない魔女ディルノヴァツの物語が語られる。しかしながら,全曲に占める音楽的な重要性については,どちらも共通していると言えよう。
ヴァーグナーは,『友人たちへの伝言』の中で,『さまよえるオランダ人』について次のように述べている。
私の記憶では,『さまよえるオランダ人』に本格的に着手する前に,まず第2幕のゼンタのバラードをスケッチし,韻文とメロディーを仕上げていた。この曲に私は無意識のうちにオペラの音楽全体のテーマの萌芽を埋め込んだのである。(12)全曲の萌芽にあたるのが,ゼンタのバラードであると述べているわけだが、オペラのすべての動機が、このバラードの中に存在しているわけではなく、このヴァーグナーの記述に誇張があることは、ダールハウス以来、指摘されている(13)。 とはいえ,ゼンタのバラードが,オペラ全体の中でも強い印象を残す重要な曲であることには変わりない。 同様に『妖精』におけるゲールノートのロマンツェでの〈魔女の動機〉の役割を考えると,『さまよえるオランダ人』のゼンタのバラードと同じような地位を占めていると考えても,過大評価ではあるまい。 むしろ最初期のオペラ『妖精』において,すでに示導動機の萌芽が見られると判断することも可能であろう。 もちろん,後年の作品でのような緻密な示導動機ではなく,ダールハウスが『さまよえるオランダ人』での示導動機に対して指摘しているように(14),回想動機(Erinnerungsmotiv)としての性格が強いと考えるのが妥当ではある。 『妖精』の第2幕フィナーレでの〈魔女の動機〉が、ゲールノートの歌う魔女のエピソードを回想させる機能を持つからである。
3. 魔女のエピソードの典拠
『妖精』におけるゲールノートのロマンツェの音楽的な意義については以上の通りである。次に物語の内容の背景について考察する。 ヴァーグナーがオペラ全体の典拠としたゴッツィの『蛇女』(La donna serpente: 1772)という寓話劇の中に,すでに魔女ディルノヴァツの物語が含まれていることから,ヴァーグナーは,ゴッツィの原作から、魔女のエピソードもそのまま流用していることがわかる。ゴッツィでも,魔女の名前は同じディルノヴァツである。しかしながら,だまされた王はチベットの王と特定されており,話の内容はやや複雑である。語るのは従者のパンタローネで、次のような内容である。
ディルノヴァツという年老いた醜い魔女がいた。魔法の指輪の力で,チベットの美しい王妃に姿を変え,本物の王妃を追い出し,自分が王妃の座についた。ある日,王は,彼女が別の男性とベットにいるのを目撃した。王は激怒して,剣をとって彼女に切りかかり,指輪をはめていた指を切り落とした。すると,彼女はもとの醜い姿に戻ってしまった。チベットの王は,本物の王妃を探しに出かけ,物乞いまでしていた彼女を見つけ出し,その後は幸福に暮らした。(15)
ゴッツィもヴァーグナーも,醜い魔女が魔法の指輪の力で美女に変身して王妃になりすますが,不貞を目撃され,指を切られてもとの醜い姿に戻るという点では共通している。ただし,ゴッツィの原作では,本物の王妃とそっくりの姿になりすまし,本物の王妃と入れ替わり,追い出された王妃は物乞いまでするという設定になっている。また,王のチベットという地名もヴァーグナーは取り払ったが,これは東洋的な要素を削除するというヴァーグナーの強い意志によるものであろう。というのも,ヴァーグナーはオペラの登場人物の名前について,「北方的な性格をねらってそれぞれの名前を選んだつもりだった」(16)と述べているからである。 ゴッツィでは魔女のエピソードを語るのがパンタローネというコメディア・デ・ラルテでお馴染みの登場人物だったのを,ヴァーグナーが『ニーベルングの歌』に登場する勇者の名前であるゲールノートにしたのも,ゴッツィの原作のコメディア・デ・ラルテ色を一掃するためであると同時に,北欧的要素を持たせようとしたためであろう。もちろん,後年,大作『ニーベルングの指環』の作曲に取りかかることを考えると,意味深長な感じも受ける。
なお,ゴッツィはこの寓話劇『蛇女』を作劇するにあたって,『トゥーランドット』と同様,ペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』(1710-12)の中の物語を利用している(17)。 『蛇女』の原作は「ルスヴァンシャド王とシェーリスタニ王女の物語」である。 中国の王ルスヴァンシャドは妖精の王女シェーリスタニと結婚するが,困難な試練に耐え切れず,離れ離れになる。しかし,最後に王の王女を思う心が勝り,再び幸福な生活を取り戻すという内容である。この物語の途中で,ルスヴァンシャド王が旅の途中で見聞した出来事として,「チベットの若き王とナイマンの王女の物語」という別の物語が一種の枠物語として挿入される。この途中に挿入された物語を,ゴッツィが魔女ディルノヴァツの話として利用しているのである。このもとの物語では,魔法の指輪で変身する女性の名前は,ディルヌアザ(Dilnuaza)で,話の概要は次の通りである。
ディルヌアザは,愛人をたくさん持つほどの美貌を誇っていたが,やがて年老いて,誰にも相手にされなくなると,それまでに全財産を貢いでくれたムクビルという愛人と一緒に暮らすようになる。彼女はこの男と一緒に魔女の住む荒野に出かけ,この魔女からどんな姿にも変身できる二個の魔法の指輪をもらう。二人はまず,若い王女が王座につくことになっていたナイマンの国にでかける。この王女の戦死したおじの姿に指輪の魔力で変身した男は,王女から王座を奪い,王女を追い出す。追放されたナイマンの王女は,その後,チベットの王に見初められ,チベット王の王妃になる。チベットの王が,王妃の仇をとるために攻めてくるという話を耳にしたムクビルは,死んだふりをする。墓に埋められたあと,ディルヌアザにこっそり墓から出してもらい,チベットに向かう。今度は,ディルヌアザが王妃の姿に変身し,本物の王妃を追い出す。 王が狩りに出かけたあと,ムクビルが宦官の姿になって偽の王妃の寝室に入り込み,王の姿に変身してベットに入る。そこへ伝言を伝え忘れた王が突然,王妃の部屋に戻ってくる。自分とそっくりの姿をした男が王妃と一緒にいるのを目撃し,王はベットにいる二人に切りかかるが,男は逃げ去り,偽の王妃は手を切り落とされると,醜い老婆の姿になる。だまされたことを知った王は,この老婆の首も切り落とす。ルスヴァンシャド王が、物乞いをしていた本物のチベット王妃からこれまでの話を聞いていると,チベットの王が逃げた男を追いかけている姿を目撃する。男を取り押さえたチベット王に,ルスヴァンシャド王が本物の王妃と再会させる。(18)このあと,感謝されチベットの王宮で数日過ごしたルスヴァンシャドが,シナの国に戻り,自分の経験を部下に語って聞かせる。皆口々に,王が夢中になっているシェーリスタニ王女もこうした魔女に違いないと語り,王もその気になる,という風に話は続いていく。 以上が『千一日物語』に含まれる原作の概要であるが,ゴッツィやヴァーグナーでは簡単に触れられるだけのエピソードが,元来はかなり込み入った物語だったことがわかる。 もちろん,ヴァーグナーは『妖精』を作るにあたって,ゴッツィの『蛇女』に依拠しただけで,その原作である『千一日物語』までは知らなかったようである。 ヴァーグナーは,後年の楽劇の創作にあたっては,それぞれの神話や伝説の背景にまで深くさかのぼって研究した上で,台本の作成に取り組んでいったが,処女作『妖精』の段階では,まだそこまで深く追求することもなく,単にゴッツィの原作で知ったメルヒェンを,単なる素材として利用したに過ぎなかったのである(19)。 ロマンティック・オペラとして創作したのも,当時の時流に乗って何とか自作を上演したいと考えたのが最大の理由であろう。『さまよえるオランダ人』以降の作品のような作曲者自身の内的な必然性は,あまり感じられないからである。
とはいえ、『妖精』やその中のディルノヴァツのロマンツェのエピソードの背景に,こうした物語があることを知っておくのも、まったく意義のないことでもあるまい。 本来は複雑な物話を,ゴッツィが簡潔な魔女のエピソードとしてまとめ,ヴァーグナーはそれをさらに簡略化しながら,〈魔女の動機〉の旋律を生み出し,ヴァーグナーにとっては最初の示導動機が成立する契機となったのだから。
1) Wagner, Richard: Sämtliche Schriften und Dichtungen. Leipzig (Breitkopf & Härtel) o.J. [以下, SSと略記する], Bd.4, S.252.
2) Wagner, Richard: Mein Leben. München (List) 1969, [以下, MLと略記する], S.86. 邦訳(山田ゆり訳):わが生涯(勁草書房) 1986, 85頁。
3) ML. S.812. 邦訳 939頁。
4) ML. S.161. 邦訳 180頁。
5) Wapnewski, Peter: Die Oper Richard Wagners als Dichtung. In: Richard-Wagner- Handbuch. Hrsg. von Ulrich Müller u. Peter Wapnewski. Stuttgart (Kröner) 1986, S.223-352, hier S.289f.
6) SS. Bd.11, S.13.
7) Sternfeld Richard: Zur Entstehung des Leitmotivs bei Richard Wagner. In: Richard Wagner-Jahrbuch, 2.Band (1907), S.106-127, hier S.107.
8) ML. S.80. 邦訳 88頁。
9) Westernhagen, Curt von: Wagner. Zürich (Atlantis) 21979, S.53. 邦訳(三光長治・高辻知義訳):ワーグナー(白水社)1973, 65頁。
10) SS. Bd.1, S.9. 邦訳(高木卓訳):ヴァーグナー小説集 (深夜叢書社)1976, 97頁。
11) SS. Bd.1, S.271f.
12) SS. Bd.4, S.323.
13) Dahlhaus, Carl: Richard Wagners Musikdramen. München (Piper) 1988, S.22. 邦訳 (好村富士彦・小田智敏訳):リヒャルト・ワーグナーの楽劇 (音楽之友社)1995, 26〜27頁。
14) Dahlhaus: a.a.O., S.23. 邦訳 27頁。
15) Gozzi, Carlo: La donnna serpente. Übers. von August Clemens Werthes. In: Richard Wagner Die Feen. Hrsg. von Michael von Soden u. Andreas Loesch. Frankfurt a. M. (Insel) 1983, S.61-118, hier S.69f.
16) ML. S.87. 邦訳 96頁。
17) Feldmann, Helmut: Die Fiabe Carlo Gozzis. Köln (Böhlau) 1971, S.62.
18) Petis de la Croix, Francois: Les Mille et un jours. Nouvelle Edition. Paris (Societe du Pantheon Litteraire) 1843, S.30-48. 独訳 Erzählungen aus Tausendundein Tag. Hrsg. von Paul Ernst. Frankfurt a.M. (Insel) 1963, Bd.1, S.72-123.
19) Krienitz, Willy: Richard Wagners "Die Feen". München u. Leipzig (Georg Müller) 1910, S.52.