Musikalische Leitung: Claudio Abbado
Szenische Beratung: Klaus Michael Grüber, Ellen Hammer, Moidele BiokkelBen Heppner (Tristan)
Deborah Polaski (Isolde)
Marjana Lipovsek (Brangäne)
Albert Dohmen (Kurwenal)
Matti Salminen (König Marke)
Reiner Goldberg (Melot)
Rainer Trost (Hirte, junger Steuermann)
Michael Horl (Steuermann)
Herren des Rundfunkchores Berlin
Berliner Kurier の批評
Tristan und Isolde - ein Rausch der Liebe
トリスタンとイゾルデ − 愛の陶酔
(抄訳)
フィルハーモニーでの「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式上演は、嵐のような拍手、スタンディング・オベイションで幕を閉じた。 フィルハーモニーがワーグナー作品を取り上げるということで、チケットは何週間も前から売り切れになったが、特別なイヴェントになることを期待させるものでもあった。 13分もの終演後の拍手喝采。
アバドは5時間半もの上演を、譜面を置いて指揮をした。 譜面やオーケストラ配置にかなりの変更が加えられ、感動的に指揮されたトリスタンは大成功だった。 様々に動くテンポが時には歌手たちを困惑させ、この素晴らしいオーケストラの音量は、ところどころソリストたちをかき消すこともあった。音量のあるイゾルデのポラスキですら。 カナダ人ヘプナーは、美しいヘルデンテナーを歌い通すのに苦労したが、徐々に表現力を増していった。
サルミネンのマルケ王、リポヴシェクのブランゲーネ、ドーメンのクルヴェナールは素晴らしかった。 グリューバーの演出アドバイスのお陰で、演奏会形式の堅苦しい不自然さからは解放された。 ほとんど同じ配役で、このトリスタンは、残念ながら1999年に初めてザルツブルクで上演されることになる。 ベルリンにとっては、残念なことだが。
Tagesspiegel の批評
Die innerste Seele tritt ins Licht
Das Berliner Philharmonische Orchester als kollektiver Held:
Claudio Abbado dirigiert konzertant Richard Wagners "Tristan und Isolde"
- Ein triumphales Vorspiel zur Salzburger Aufführung (Sybill Mahlke)魂の奥底が明るみに
アバド/ベルリン・フィルの「トリスタン」
ザルツブルク上演へ向けての輝かしい前奏
(抄訳)
今回の演奏は、アバドの最大の勝利と言うべきものである。 1989年10月、オーケストラが彼を音楽監督に選んだ時の勝利と並ぶものである。 比類のない興奮を伴ってオケにより奏でられるハンドルング「トリスタンとイゾルデ」。 アバドによる初の全曲演奏。 前奏曲の冒頭部のパウゼの精確さは、音楽の夢想が自然にめばえてくるかのような感じであった。
演奏の精確さが、自由な高まりをもたらす。 作品の象徴である有名な半音階のトリスタン和音は、旋律的にも和声的にも説得力をもって示される。 副声部にもウェイトが与えられるからである。 アバドの演奏では、調性が強調されているように見える。 和声と旋律、どちらが主要なカテゴリーであるか? ワーグナーの「トリスタン」は、この問題に解答を与えずにいる。 この宙に浮いたような感じは、ダールハウスが「多声的モティーフ」と呼ぶものであるが。
アバドは、いかなる時でも、曖昧な印象を残さない。 熱心な聴衆は、モティーフの二義性を解読することができる。 明晰さが追求された演奏なのだから。 ワーグナーは、「魂の奥底」からの要請により、この作品をハンドルング(劇/筋)と呼んだ。 この作曲家の魂の奥底が、今回の演奏で明るみに出された。 交響的織物とテキストが一体となることによって。
アバドのオケの配置では、ビオラが通常は第1バイオリンが座る位置に置かれる。 第1バイオリンは中央に位置し、木管楽器とのコンタクトが密になったといえる。
Berliner Zeitung の批評
Protestantismus, beschaubar
Die Philharmoniker und Claudio Abbado spielen Wagners "Tristan und Isolde" (Peter Uehling)プロテスタンティズム
ベルリン・フィルとアバドの「トリスタン」
(抄訳)
こうしたツィクルスとしてのコンサートは、文学的観点から集めた音楽を単に並べるだけになってしまう危険性がある。 アバドの「トリスタン」解釈も、音楽演奏の一種のプロテスタンティズムの証明である。
ベルリン・フィルが演奏した以上に、透明さ、厳格なアーティキュレーション、説得力のあるフレージングを持った演奏をすることは、ほとんど不可能であろう。 アバドも、例えば、第1幕でのトリスタンとイゾルデの対話でのように画一的になりがちなパッセージを、大きな流れとして伝えることができた。 しかし、潜在的な情熱の緊張感、押え込まれたエロス(これは品のある言葉の背後で何度も燃え上がる)、これらを伝える点では、アバドはあまり成功していない。 見事な技巧と極度の精密さが際立った演奏だったが、アバドのよそよそしい指揮が、陶酔の瞬間を妨げていた。
圧巻はサルミネンのマルケ王。表情豊かなマンフレート・プライスのバスクラリネットのソロに伴われていた。疑いなく、非常に優れた上演であったと言える。
しかし、アバドがこの作品に対して、どのような興味を見出しているのか。 この疑問は、演奏からもプログラムからも明らかではない。 緻密な音楽の流れには、推進力も、何らかの意図を伴った重々しさも見当たらず、作品に奇妙な瞑想性、さらには見通しのよさすら与えていた。 演奏は、期待されたイヴェントにふさわしい拍手喝采を浴びていた。